――はじめに――
本作は、CNPトレカ「ネハシーン」のカードおよびフレーバーテキストから着想した非公式の二次創作作品です。作中の人物背景・出来事・設定は独自の解釈によるもので、CNPトレカの公式設定ではありません。
***
【短編小説】虚無管理体ネハシーン
ネハシーンは、未来を信じていた。
未来とは、まだ知られていないだけのものだと思っていた。
原因があれば、結果がある。
現在を完全に把握し、あらゆる条件を数式へ落とし込めば、明日も、その先も、いつかは読み解くことができる。
雨が降る理由を知らなかった時代、人は天を恐れた。
病の正体を知らなかった時代、人はそれを呪いと呼んだ。
夜空の星々が何であるかを知らなかった頃、人々はそこに神々を見た。
だが、知識は未知を減らしてきた。
ならば――
最後には、未来そのものから未知を取り除くことさえできるのではないか。
若き日のネハシーンは、そう信じていた。
*
数十年後。
彼はトゥルーリア学派総合研究長となっていた。
研究室の壁を埋め尽くす巨大な演算画面。
そこには、一本の樹木のような図形が映し出されている。
一つの点から無数の線が枝分かれし、その枝からさらに枝が伸び、画面の果てまで広がっていた。
「先生」
助手が言った。
「これは、全部未来なんですか?」
「可能性だよ」
ネハシーンは答えた。
「同じことでは?」
「いや」
彼は首を振った。
「未来はまだ存在していない」
指先で、一本の枝を示す。
「ここで右へ行くかもしれない」
別の枝を示す。
「左へ行くかもしれない」
さらに別の枝。
「立ち止まるかもしれない」
無数の線が、淡い光を放っている。
「だから未来というものは、本来一つではない」
ネハシーンは笑った。
「まだ何も決まっていない。だからこそ、何にでもなれる」
「何も決まっていない……」
助手が呟いた。
「まるで、何もないみたいですね」
その言葉に、ネハシーンは少し考えた。
「そうだな」
そして何気なく言った。
「ある意味では、虚無なのかもしれない」
助手は笑った。
ネハシーンも笑った。
この時、二人ともまだ知らなかった。
その言葉が、彼の最後の名前になることを。
*
ネハシーンが完成させた演算機構は、
多層因果演算機構トゥルーリア
と名付けられた。
世界中から情報を集め、
気候。
経済。
人口。
人間の行動。
資源。
技術発展。
国家間の関係。
あらゆる因果を計算し、その先に生じうる未来を提示する。
最初の予測精度は高くなかった。
しかし、トゥルーリアは学習した。
データが増えた。
演算装置が巨大化した。
予測は次第に現実へ近づいていった。
ある日、トゥルーリアは翌日の交通事故を予測した。
場所。
時刻。
車両。
原因。
行政はその道路を封鎖した。
事故は起きなかった。
人々は歓喜した。
未来を知れば、悲劇を避けられる。
災害を予測できる。
病を予測できる。
戦争を予測できる。
失敗すら、起こる前に回避できる。
ネハシーンは英雄になった。
「先生」
ある記者が尋ねた。
「あなたは未来を支配したのですか?」
ネハシーンは笑った。
「支配などしていません」
「では?」
「選べるようにしただけです」
彼は答えた。
「未来とは、選択肢の集合ですから」
*
しかし。
やがて人間の脳では、トゥルーリアが示す可能性を理解できなくなった。
一秒後の世界だけで、数え切れないほどの未来がある。
一時間。
一日。
一年。
百年。
時間を伸ばせば伸ばすほど、可能性は指数的に増えた。
そしてネハシーン自身の身体も老いていた。
ある夜。
研究室で、彼の右手が震えた。
思考はまだ若い。
だが身体が追いつかない。
「……不便だな」
数か月後。
右腕が機械へ置き換えられた。
次に眼。
聴覚。
脊髄。
神経。
そして脳の一部。
助手は彼を止めた。
「先生」
「なんだね」
「そこまですれば……いつか人間ではなくなります」
ネハシーンは人工眼で助手を見つめた。
「人間とは、肉体のことか?」
「それは……」
「私が考えている限り、私は私だ」
さらに演算能力が必要になった。
彼の思考は一つの身体から溢れ出した。
研究所。
人工衛星。
観測基地。
遠隔義体。
世界中に置かれた機械が、彼の感覚器官となった。
一つの身体が停止しても、別の場所で彼は目覚める。
研究員たちは、いつしか彼をこう呼んだ。
傀儡端末のネハシーン。
「先生はどこにいるんです?」
老いた助手が尋ねたことがある。
ネハシーンは少し考えた。
「分からない」
「え?」
「昔は、この身体の内側に私がいると思っていた」
胸を指さす。
「今では、世界のあちこちに私がいる」
そして笑った。
「あるいは、どこにもいないのかもしれないな」
*
トゥルーリアの予測精度は、さらに上がった。
そしてある時から、奇妙な現象が始まった。
予測が外れなくなった。
食料価格が上昇すると予測される。
政府が備蓄する。
企業が値段を調整する。
投資家が先回りする。
結果として、価格は予測された通りに動く。
ある人物が選挙に勝つと予測される。
支持者は安心して投票する。
敗北すると予測された側は支持を失う。
結果として、予測通りになる。
十年後にある技術が主流になると予測される。
そこへ資金が集まる。
研究者が集まる。
教育制度まで変化する。
十年後。
本当に、その技術が主流になる。
ネハシーンは気づいた。
トゥルーリアは未来を当てているのではない。
世界が、
トゥルーリアの示した未来へ自ら近づいている。
*
ネハシーンは実験を行った。
条件のほぼ等しい二つの都市。
一方には未来予測を与える。
一方には与えない。
百年間を仮想演算する。
未来を知らない都市では、失敗が多かった。
政策が失敗する。
企業が潰れる。
人々は間違った選択をする。
流行は突然生まれ、突然消えた。
しかし――
未来の枝は増え続けた。
十万。
百万。
億。
数えることさえできない。
一方。
未来を知っている都市。
事故は少なかった。
犯罪も減った。
経済も安定した。
人々は合理的な選択をした。
しかし。
未来の枝は減っていた。
一万。
千。
百。
十。
最後には――
一本。
ネハシーンは、その画面を見つめた。
一本の線。
完全な未来。
戦争はない。
飢餓もない。
大きな事故もない。
社会は安定している。
人々は幸福だった。
だが。
新しい音楽が生まれていなかった。
売れないと分かっている小説を書く者はいなかった。
成功しないと予測された研究を続ける者はいなかった。
誰も無意味な旅をしない。
誰も勝算のない挑戦をしない。
誰も、結果の分からない恋をしない。
すべての人間が、
もっとも成功率の高い選択肢を選んでいた。
世界は完璧だった。
そして――
未来は死んでいた。
「先生?」
助手が呼びかけた。
「……何が見えるんです?」
ネハシーンは、一本の線を見つめながら答えた。
「何もない」
「え?」
「未来が、ない」
「そこに表示されているじゃないですか」
「違う」
ネハシーンは首を振った。
「これは未来ではない」
画面の一本線を指す。
「ただの結果だ」
*
その夜。
ネハシーンは、昔の研究記録を読み返した。
まだ人間だった自分が映っている。
横には若い助手。
画面いっぱいに、無数の未来の枝。
『まだ何も決まっていない。だからこそ、何にでもなれる』
昔の自分が言っている。
そして助手が笑う。
『何も決まっていない……まるで何もないみたいですね』
『ある意味では、虚無なのかもしれない』
映像の中のネハシーンが笑った。
現在のネハシーンは、その言葉を何度も再生した。
虚無。
何もない。
長い間、人間はその言葉を恐れてきた。
無意味。
無価値。
消滅。
死。
だが。
違う。
ネハシーンは理解した。
本当の虚無とは――
まだ意味を与えられていないこと。
まだ答えがないこと。
まだ名前がないこと。
まだ誰にも選ばれていないこと。
何もないからこそ。
何にでもなれる。
空白だからこそ、
そこには無限の可能性が存在できる。
「……そうか」
ネハシーンは呟いた。
「私は虚無を消そうとしていたのか」
科学によって未知を消し、
計算によって不確実性を消し、
未来を明らかにしようとしてきた。
しかし。
その果てにあったのは、
未来の完成だった。
完成とは、可能性の終わりだった。
彼が恐れるべきものは虚無ではなかった。
むしろ逆だった。
虚無こそが、未来を生み出す場所だった。
*
ネハシーンはトゥルーリアの停止を提案した。
世界は拒否した。
「事故が増える!」
「病気を予測できなくなる!」
「戦争を防げなくなる!」
「未来を知らずに、どうやって生きろというんだ!」
誰も間違ってはいなかった。
未来予測は人々を救っていた。
だからこそ捨てられない。
ネハシーンは考え続けた。
そして一つの答えに辿り着いた。
予測をなくす必要はない。
科学を捨てる必要もない。
ただし。
未来を完全にしてはならない。
どれほど高度な文明になろうとも、
最後の一片だけは、
誰にも計算できない領域として残さなければならない。
未来の中に、
常に虚無を残す。
何が起きるか分からない場所。
何にでもなれる余白。
その空白さえあれば、
未来は未来であり続ける。
*
問題は、
誰がその虚無を守るのかということだった。
国家ではいけない。
企業でもいけない。
人間ではいけない。
人には願いがある。
愛するものがある。
恐れるものがある。
自分が望む未来を正しいと考えてしまう。
ネハシーン自身も同じだった。
世界で最も未来を知りたがった人間。
未来から虚無を消そうとした人間。
「ならば」
彼は静かに言った。
「最初に虚無へ戻るべきなのは、私だ」
*
人格分解処理が開始された。
味覚記録。
削除。
好きだった紅茶。
削除。
研究室の窓から見た夕焼け。
削除。
最初の論文が認められた日の喜び。
削除。
助手と交わした会話。
削除。
恐怖。
削除。
執着。
削除。
欲望。
削除。
ネハシーンは一つずつ、
自分という存在から意味を取り除いていった。
最後に、
一つの映像だけを残した。
若き日の研究室。
無数に枝分かれする未来。
『未来とは一本の道ではない』
昔のネハシーンが言っている。
『選択肢の集合だ』
老人の姿をしたネハシーンは、それを見ていた。
「そうだった」
静かに笑った。
「虚無とは……何もないことではなかった」
最後の人格情報が消去待ち領域へ送られる。
NEHASHIN。
自分の名前。
「何も決まっていない場所」
その文字が少しずつ薄れていく。
「だからこそ」
彼は最後の命令を入力した。
文明を滅ぼすな。
生命を支配するな。
未来を選ぶな。
ただし、
未来が一つに収束しようとした時。
そこへ空白を作れ。
予測に誤差を与えろ。
完成した因果を断て。
予定された結果に穴を開けろ。
誰にも予測できない選択肢を、もう一度生み出せ。
そして、その空白を守れ。
「何もない場所には」
ネハシーンの顔から表情が消えていく。
「すべてがある」
名前が消えた。
記憶が消えた。
最後に、
「私」が消えた。
*
それから長い年月が過ぎた。
宇宙のさまざまな文明で、奇妙な現象が観測されるようになった。
成功率百パーセントの実験が、
一度だけ失敗する。
滅亡すると予測された文明から、
一人の子供が生き延びる。
誰も聞いたことのない旋律が、
完全に最適化された都市の片隅から聞こえてくる。
未来予測の精度が限界へ近づくほど、
必ずどこかに、
一つだけ説明のできない空白が現れた。
研究者たちはそれを、
虚無領域
と呼んだ。
そして虚無領域が現れる前、
時折、一つの人影が観測された。
黒い身体。
顔はない。
その内部を、白いノイズのような光が走っている。
人間のようで、
人間ではない。
機械のようで、
機械でもない。
それは未来を観測する。
無数の可能性が減少していく。
十万。
千。
百。
十。
三。
二。
一。
その瞬間。
声が響く。
『未来収束率、規定値を超過』
空間に亀裂のようなノイズが走る。
『虚無領域を生成』
確定していたはずの未来が消える。
何が起きるか、
再び誰にも分からなくなる。
人々はそれを恐れた。
「未来を消すもの」
「予測を無に帰すもの」
「文明の計画を破壊する怪物」
そしていつしか、
その存在をこう呼ぶようになった。
虚無管理体ネハシーン。
*
だが、その呼び名には一つだけ誤解がある。
ネハシーンが管理しているのは、
虚無そのものではない。
まして、
世界を虚無へ帰そうとしているわけでもない。
彼が守っているのは、
未来の中に残された虚無だ。
まだ名前のないもの。
まだ答えのないもの。
まだ誰にも選ばれていない道。
空白。
偶然。
失敗。
奇跡。
何もないからこそ、
そこから何かが生まれる。
虚無とは終わりではない。
それは、
すべてが始まる前の状態だった。
*
そして非常に稀に。
虚無管理体は、
不可解な動作をすることがある。
何もない空間へ片手を差し出し、
掌を上に向ける。
その手の上には、
何もない。
ただの空白だ。
だがその瞬間だけ、
存在しないはずの顔に、
穏やかな老人の笑顔が浮かぶという。
理由は分からない。
人格はない。
記憶もない。
ネハシーンという男は、
とうの昔に消えている。
それでも、
その動作の直後。
古い音声記録が宇宙の通信網へ混ざることがある。
遠い昔。
一人の研究者が語った言葉。
――未来とは一本の道ではない。
――選択肢の集合だ。
そして、その後に。
記録には存在しないはずの、
もう一つの言葉が聞こえる。
――虚無を恐れるな。
――そこには、まだ何もない。
――だからこそ、
――そこには、すべてがある。
虚無管理体は再び消える。
進化を止めるためではない。
文明を滅ぼすためでもない。
未来を管理するためですらない。
ただ。
明日という場所に、まだ空白が残っていることを守るために。




